「今日の空は青い」

ーダッチ⑦ー

 

あの謎めいた出会いから4年が過ぎる。

 

最初の頃は、やけにフレンドリーすぎる男に躊躇し身構えていたが、半年も経てば不思

議と緊張はほぐれ、まるで竹馬の友とも言えるほどの間柄となり、ただそれ自体は自認

していたというより周囲の友人から言われて気づいていったことである。もし仮に男、

いやシゲシゲがあちら側の人間なのであれば、騙す対象者の私に時をかけすぎている。

最近よくSNS等で見られ、何かとニュースでも取り上げられている「無限連鎖講」、い

わゆる「ねずみ講」に、もし彼がハマっていて金銭目当てであれば、私にここまでの時

間を要するのは無駄もいいところだ。ましてや私は資産家の息子でも両親が経営者とい

うわけでもない。これらを踏まえれば、シゲシゲへの闇人疑惑は限りなく薄いという見

解はおおよそ当たっている。加えてあの風貌や話し方に人たらしなところも含めればき

っと..........

 

「お兄さん、何飲まれますか?」

 

グラスは空になっている。さっき頼んだばかりなのにと思いつつ、飲酒を促す彼女を見

る。際どい服だな、と私にとっては己を罰しなければいけないほどのいやらしい目でチ

ラチラと彼女の胸元を覗いてしまう。その興奮に溺れたのか、2転3転した過去の回想

から戻った手前だからなのか返事が浮つき、その狼狽さを隠すために1オクターブ低い

声で無理矢理取り繕う。

 

「え....あぁ.......じゃ、じゃあギムレットにしようかな」

ギムレットは無いんですよ。ごめんなさいね。その代わりになるようなもの何かあるかなぁ.......」

 

確か齢20と言っていた彼女の一言はスナックのママのような貫禄があり、代わりを探す

という言動が私を包み込む。ギムレットにしようという私の言葉に間髪入れずに発した

彼女は私より経験が豊富なのか、そのしっとりとしたガトーショコラのような声を発し

てボーイに聞きまわっている。外見と年齢が比例していながらも、それらは声や雰囲気

とは反比例しているという狭間の渦に呑み込まれそうになるが、その私を撥ねつけるよ

うに何かが差した。

 

「お兄さん、ギムレットできるみたいです。少しお高くなるみたいですけど、大丈夫ですか?」

「え、あぁ..................大丈夫ですよ。じゃあ.......それでお願いします。」

 

社会人としての余裕など見せる間もなく、覚束ない返事をした私は、そのあと運ばれて

きた‘‘ぎむれっと‘‘なるものをちびちびと飲むほかなかった。

(グラスの飲み口を誠目線→ギムレットの水面から次の人物の物語が始まる)

 

「今日の空は青い」

ーダッチ⑥ー

 

‘‘戸田君‘‘という柔らかな響きを受けて我に返る。

 

いつの間にか講義は終わり、受講者200人の大クラスも今や10数人程度しかいない昼

食時。隣に座った男は不思議そうに私の顔を覗き込んでいる。A4のルーズリーフに目を

やると『第一回 ジェンダーとは何か?』で筆記は止まっている。その先に記してあるこ

と、これは私が作者かとは思えないほど不気味な、何百もの点で描かれた集合体の真ん

中に力強く何重にも囲まれた真っ黒な丸が一つある。その邪悪な黒丸はこれでもかとば

かりに力強く、紙が破けるほどの筆圧で描かれており、もはや絵画の範疇を超えてい

た。周囲を取り囲む小点から崇められる悪の王なのか、周りの烏合の衆との違いを見せ

るための善人のように振る舞う奴の自己顕示欲の表れなのか、どういう趣旨をもって記

そうと思った咄嗟の行動かは不明だが、いずれにせよ、意識が飛んでいる中でこれを描

いていた自分自身が気持ち悪くて仕方がない。横の男もきっとそう思ったであろう。

 

「それを悪だけで表現するのは少し強制的すぎない?」

 

とてつもない不意打ちをくらったような気がして、椅子に腰かけていながらも仰け反

り、呆気にとられたように半端に開口する。

 

「え......」

「いや、だって『黒が邪悪』なんて誰が決めたのかなと思ってさ。広辞苑にも載っていなければ六法全書にも載っていない。本当に黒って悪なのかな?」

「何で分かるの?」

「100%分かるわけじゃないし、人によりけりだろうけど、俺は黒って善でもあると思う。特にその黒丸、塗りつぶされてるわけじゃないからきっと表向きは悪人でも内に秘めたるは善の心なんじゃ..........」

「や、だから!」

 

大講義の室内に苛立ちなのか動揺なのか分からぬ声が響き渡り、その反響に私は驚くと

同時に全身に熱を感じる。そして横の男の顔もまたタイムラグを経て引きつり、静止し

た状態で先ほどより大きく目を見開く。私はその状況にいてもたってもいられず、言葉

を発することをやめなかった。

 

「どうして僕の考えてることが分かるんだよ!?ていうか、何で僕の名前知ってるんだよ!?なに?僕のことつけてきた!?カルト教団の類の宗教的何か!?それともマルチ商法の勧誘!?」

 

男の正体がそうでないのなら、必ず咄嗟に言葉が返って私の熱を冷ましてくれるという

期待を予測して、相手への失礼を承知でこの質問を投げかけた。だがその予想に反して

すぐには返ってこず、無音時間が私を焦らす。

 

1週間前の4月3日、レンガ造りの歴史的建造物の講堂で入学式は執り行われた。しか

しそれ以前にいわゆる『新歓』が4月1日から既に始まっており、私は友人0の高校の先

輩など誰もいない未知の領域に早々と足を踏み入れていた。野球、サッカー、テニス、

ダンス、よさこいラクロスなどブースが設けられている。それらのサークル員たちに

紛れて中高の生徒会を大幅にバージョンアップさせたような面々が数枚のパンフレット

を配っていた。そこには『新入生の皆さん!ようこそ、〇〇大学へ!』というでかでか

としたキャッチフレーズに、今キャンパスの中庭の軒を連ねる様々なサークルの紹介文

がぎっしりと掲載されている。そして2枚目にはパソコン講習や留学などといった大学

生活をより豊かに彩る術があげられており、これからの生活に並々ならぬ高揚感を与え

ている。だが、3枚目を見た瞬間、その希望に0.1mm規模の小穴が空くのが体感として

分かる。多方向から引っ張られた強固な粘性物に穴が空き、時を経ていけばそうするほ

ど徐々に大きくなっていくように、厚みのあった希望の2文字は薄くなり細くなってい

く。

そういえば、と思い出すことがあった。昨年5月他県の大学で生徒が性的被害に遭った

のち自殺したというニュースが報道されていた。最初は被害者の生徒が体験入部として

所属していたサークルが捜査の対象となっていた。だがその過程で、いわゆる‘‘ヤリサ

ー‘‘や‘‘飲みサー‘‘といった団体よりもさらに恐ろしい外部の人間が当人に接触していたこ

とがLINEのトーク履歴などから判明し、警察はその外郭に焦点をあてて再捜索を開始し

た。そして事件から1か月を経てようやく大元が逮捕された。彼らは『クエスチョン』

と名乗り布教活動を行っていた新興宗教団体で、ネットにSNSや街頭などで講演会のよ

うな募金活動のようなことを行っていたそうだ。聞くところによると、被害者は人文学

部グローバル科に在籍し、特に『ジェンダー』や『LGBTQ』、『プロレタリアート』な

どのカタカナ用語から『被差別部落』、『男尊女卑』などといった和製用語が混在して

飛び交う、多々の人種と接点を持つ学府に夢や希望を抱きつつ難関関門を潜り抜けて入

学に至ったという新入生だった。当人は生前友人に対し、「差別を無くしたい!そんな

日本を世界を実現する人間になれるように、まずは自分がいろんな人たちを理解し受け

入れることのできる人になるんだ!」と語っていたそうで、新歓ブースでもそういう意

気込みだったと聞く。また当人の曽祖父母が90年以上前にあった関東大震災後の朝鮮人

大虐殺の波及を受けていたということから、ルーツは半分朝鮮半島にあるということも

知人や友人からの聞き取り調査で判明している。

そんな優等生を自殺に追い込んだ彼らは、イメージしそうなほどの変態老輩ではなく、

むしろ歳は近く私の3つ上と同年代。だが、あの日比野のような常人とはかけ離れた異

色な風貌を纏うあたりが彼らへの批判を過激にさせた。ニュース報道後、加害者家族並

びに親族たちの住居には石が投げ込まれるや、殺害予告のメールが来るやと、素人目か

ら見てもさすがにこれは誹謗中傷の域を超えているだろと感じ取れるほどの大荒れぶり

をみせた。しかし、身内がそのような状態にもかかわらず、当の本人たちは取り調べの

際口をそろえて「私たちは救った」と大物気取りな世間体を覆す発言の一点張り。そし

て救ったとはどういうことだと問うてもその答えは見つからない。そんな問答の繰り返

しに痺れを切らした警察側は送検・勾留・起訴の後、刑事裁判を経て彼らに懲役25年を

言い渡したという結末で徐々に世間から掠れて消え遠のいてしまった。そんな事件がそ

のあと全国各地で数件繰り返されたことで、各大学側もよほどの緊張感をもって事にあ

たったのだろう、おかげでこれまで許されていた新歓ブースでの飲酒は禁止され、キャ

ンパス外では昼夜問わず大学側の目が光っていた。ほんの1.2年ほど前までその名を聞か

ない日は1度として無かった、いわゆるコロナウイルスという奴に漬され続けていた頃

の身動きの取りにくさほど滑稽なものはなかったが、現状はそれに等しいといっても過

言ではなかった。

そんな経緯を経ての今というわけだから、キリスト教を信仰する大学に居ながらも私に

とって宗教はとてつもない悪という、場違いな偏見がこびり付いているのだ。特に個人

情報を前もって晒しているというわけではないのにも関わらず、次々に私の表皮をベり

べりと剝がしていく彼に至っては教祖様かと疑うほど不気味で、だがしかしチャラそう

な一面と爽やかな一面を両方備え持つ‘‘普通‘‘な風貌をしているというところが救いだ。

 

「ややや、落ち着いて。君は考えすぎだよ。いいかい?名前は同じ学部の同じ学科だからそりゃ分かるでしょ!それにこの絵を見たら俺も何となくそう思ったまでで、それが偶然を期して被っただけだよ。」

「だとしてもだよ!?偶然すぎない?人の考えることなんて無限大だし、その中から1つの考えや選択を当てるなんて常人には成しえない所業だよ」

「じゃあ、この世界には奇跡だの偶然だのといった類の話は存在しないというのが君の考えなのかい?」

「それは......それは無いとは言い切れないけど.......」

 

偶然だの奇跡だのという海外を題材とした空想のアドベンチャー界における主人公勇者

のありきたりな聞き覚えのある軽めの投げかけをする男に差異を感じながらも、これま

で考えてもみなかった質問に膠着する。

 

「君は無いと思うのだろうけど、この出会いも俺たちにとっては奇跡なんだよ。じゃあそれを祝して今日は近くでサシ呑みと行こうよ!」

「切り替え早すぎない?」

「それよく言われる。てか、ほら君も俺の長所を言わずとも、いとも簡単に見抜けてるじゃない?これって君が言う偶然だよね、すごいよ戸田君」

 

良いように捉えすぎだ、と鼻で笑うも男は私に満面の笑みを見せている。が、笑顔に塗

れている男の顔のパーツ1つ1つのうち瞳の奥だけ見たことが無いほど黒かった。

 

 

 

「今日の空は青い」

ーダッチ⑤ー

この事件までの経緯を今まさに回想している間も曾山は日比野に問い詰められている。

そろそろ手が出るのではないのかとひっ迫しているが、誰も教員を呼ぼうとはしない。

それはカースト下部の曾山というレッテルをクラス全員がはり、関与したくないためか

日比野の悪ガキぶりに耐えかねた曾山の下剋上に皆興味津々で耳を傾けているのか、そ

れとも勉強熱心な私の素行を目の敵にし、日比野の一方的悶着を教員を介して解決させ

ず見せつけ、私に罪悪感を植え付けさせようとしているのか、の三択であろう。もし三

択目であればこれは私にとって死を意味する。先日の志望校向けの模擬試験でいえば最

終の応用問題に匹敵するほどの難易度で、考えるに時間を要する問いだが、それもスル

ーされすぐさま日比野の怒号によって打ち消される。3人の将来を夢見た偽善者戸田の

戦略は勿論良き方向には転ばず、当然のことながら誰もが想定できる結果を迎えた。

 

ホームルームで委員長の例の言葉を聞いて閃いた私だったが、日比野のプライド崩壊作

戦として有力な陸上競技には命ともいえるスパイクの針を曾山に外させて別のものに変

えるというのはおそらく成功しないと考えていた。曾山は挙動不審なのではないかと思

うほど、普段から私の何倍もおどおどし、石橋に罅が入るほど叩いて渡る性格の人間で

ある。そのため元々シューズについている日比野特注のスパイク針を外して袋に入った

別のものにすり替える行為を何者かに見られてしまえば、私が望む結果が見えるかどう

かは不明だ。そしてこれは私が曾山にこの更生方法の趣旨を伝えたとしてもそうでない

としても確実的ではない。ならばどうするか?私はあの後それだけを考えていた。動物

のような、生き甲斐に値しない選択肢だけを与えられた何者かも分からぬ物体のよう

に。

 

5限目始動のチャイムが鳴る。周囲を取り囲んだ生徒たちは散会していき、それらとは

別に異彩感を放ちながら日比野も自席に着くが、その戻る前に何を思ったことか一度だ

け私をすごい形相で睨みつけた。〈まさか私がこの事件の元凶だと気づいているの

か?〉私は額から噴き出す汗よりも手からにじみ出る汗の方が多量なことに気づき、持

っていた手巾を力強く握り、しみこませる。額から出てきた汗は頬を伝い顎を経由して

ポタポタと目の前に広げられたおかずが入った弁当箱に落ちていく。母が朝5時から念

入りに作ってくれた2段のお弁当。1段目にはご飯に梅干しという日の丸弁当。そして

2段目にはこれでもかと色とりどりのおかずが一分の隙間もないほどに敷き詰められて

いる。その2段目を見ながら思うことが1つ、〈なぜこのように視覚も味覚も形状も違

う者同士がまちまちに隣り合わせにも関わらず、こうして1つの敷地に収まっていられ

るのだろうか。そしてそういう現状があるのになぜ人間はそうはいかないのだろうか。

なぜ勉強に専念する私という人種が居ては駄目なのだろうか。〉沸々と湧き上がってく

る感情を抑えれば抑えるほどに手汗の量は尋常ではなくなる。

 

「おーい!聞いてる?戸田君」

「今日の空は青い」

ーダッチ④ー

 

私、戸田誠が受けていたいじめというのは目に見えたものではなかった。これはいわゆ

る「殴る・蹴る」または「暴言を吐く」などといったものではなく、不明瞭で陰湿な、

そしてまるで雲をつかむような歯切れの悪い精神的に追い詰められるようなものばかり

である。殴る蹴るなどは物理的で、自分が周囲の人間から嫌われていることは明確に理

解できるため、「割り切る」ことで事態を収拾することは可能であり、受けた外傷を証

拠として提示し裁いてもらうことも容易である。だが精神的ないじめというのは加害者

によってその存在を見え隠れさせることができる。被害者がいくら主張しても証拠がな

い限り強く示すことは困難で、主張が却下されれば「自意識過剰人間」というレッテル

を張られてしまうという、すべては自身の気の持ちようによるという、なんとも無責任

な人間の悪行だ。その中でも「無視」というのが最も堪えるものであった。無視される

ということは、自分という存在を亡きものとされ、それは静かに他の誰に公表すること

もなく人格否定されることを意味する。私はそうしてあの暴行事件以降静かに誰に知ら

れることもなく寿命を縮めてきた。『知られることもなく』という表現はいかにも、存

在を1人の他者に認識してもらいたい人間が使う言葉かもしれないため、この場を借り

て伝えようと思うが、私はあの当時、静かに闇然から追われ続けていたことを「誰かに

知ってもらいたい!気づいてくれ!」などと思うことはなかった。思ったとしてもそれ

らの気持ちをすべて押し殺して、冬眠する変温動物のようにひっそりと身を潜めてい

た。『誰かに知られるということが以前の倍の寿命を縮め得ることとなる』のだか

ら.......

しかし人間は我慢してきた期間が長ければ長いほど、快感を知った時の代償は大きい。

卒業まで身を潜め続け耐え凌げば、必ず光が見えると思い続けた私であったが、あの暴

行時、「バロメーターの∞表示」によって少なからず自身の中でプラスの快感を感じて

いた。これは100のプラスを意味する「長期間溜め続けて吐き出す瞬時の自慰行為によ

って得る快感」とは別物で、「反省」や「後悔」というマイナスの意を持ち合わせなが

らも、「発散」とともに『私もまだ人間なのだ」とどこかホッとする部分があるとい

う、そういった複雑な感情が入り乱れたどっちつかずの快感である。消極的でもそうで

なくても密度の高い何かがごっそり消滅した経験は刺激的であり、それが人を中毒性に

させてしまう。実際当時の私はそれに全く当てはまり、例の件以降思うように感情をた

め込むことができなくなっていた。そんなときに魔が差したのだろうか、カースト下部

にいた曾山にその焦点は当てられた。

日比野は陸上部のエース的立ち位置であり、その存在力が普段クラスの1軍に君臨する

ことを維持している。ただ、私にとっては‘‘負のエース‘‘でしかないのだが。そんな彼を

もちろんのことながら私は疎ましく思っていた。「殺してやりたい」ほどではなかった

が、赤っ恥をかかせてやりたいとは何度も思った。快感を得るためにこれほどまでに貪

欲で積極的な自分がいるとは思わなかったが、欲求に素直で忠実な自分を咎めることも

なく、問うこともなく、むしろ誇らしげに思うほどだった。

ではどのように彼を懲らしめるか、そこが最も重要である。小学生ができる悪戯なんざ

たかが知れている。だがその低クオリティの中でどれだけ相手に響かせることのできる

ものを生み出せるか、どこかで聞いたことのあるフレーズだ。しかし即座に頭に浮かぶ

のは「彼の何かを盗むこと」くらいで、もっと傷つく方法はないだろうかと頭を抱えな

がらその日1日を終えて、帰りのホームルームの時間になる。6年2組のクラス代表委員

長の加川 輝幸(かがわ てるゆき)が壇上に立ち、園児に言い聞かせるように話す。

 

「はーい!いいですか、皆さん!11月7日に運動会が行われることになりました。明日

朝のホームルームで各種目の出場選手を決めようと思っているので、自分が何に出るか

考えておくように!」

 

この瞬間私の中で何かがはじける音がした。〈これだ!これで解放される〉。半端では

ない高揚感を覚え、ホームルームでなければ今頃奇声を発していたかもしれない。日比

野が最も堪えるのは殴られることでも暴言を吐かれることでもない。【プライドを傷つ

けられること】が彼にとっての真の辛酸をなめる出来事となるのだ。そのためには学校

全生徒の前で恥辱的な言動を起こしてもらうことが必須である。陸上競技を命とし弱者

を切り捨てて頂に上り詰め、人気と権力を得た彼は怖いもの知らずといったところだ。

だが、彼にとって最恐ともいえる存在が1人。それは教員でなければ、私でもないクラ

カーストの下層に位置する曾山である。強者は弱者に敗れた時最も失墜し、そのプラ

イドは微塵もなくなる。そして強者はそこで気付くのだ。自身がどれほど愚かだったか

を。私は悪ガキ日比野を更生させる立場だ。これは私のためであり、日比野のためでも

ある。特に曾山にとっては敗者から勝者に転ずることのできる良い機会だ。3人ともに

幸が訪れるのだ。これほど平和的な解決はない。決して愚行ではない。誰も犠牲にはな

らない。

 

これが正義を貫いていた男『戸田 誠』が悪事を働く人間に変化した黒歴史である。

ーダッチ③ー

日比野は誰もが認める学校一の悪ガキで、学業は下から数えた方が早い。だが、運動神

経はピカイチで陸上競技の成績は地元では右に出るものがいないほど優秀である。そし

てそれと対照的なのが私で、彼はそれを把握しているからか普段からしょっちゅう私を

いじる。いや、あれはいじめに近しいだろう。特に中学受験を受けようとしていた私に

とって6年生の夏休み明けからの半年間は勝負の時期で、ひと時たりとも無駄にはでき

ない。そのため学校の授業の合間もひたすら机とにらめっこというわけだ。そしてそれ

を良しとしない彼は辛辣な言葉をかけてくる。

 

「おい!戸田!お前また勉強か?俺はお前らとは違うってバカにしてんだろ!?このガリ勉サル野郎が!」

 

バサッという音を立てて塾のテキストが宙を舞い床に落下する。日々の受験勉強に対す

るストレスに耐えながら、吠えまくる愚かな番犬の相手もしなければいけない。ただこ

んなことは日常茶飯事。これしきで怒る私ではない、とは思いつつも急激に高鳴る鼓動

とともに顔に熱を感じる。

スパイク事件が起こる約半年ほど前のとある日曜日に塾で模擬試験があった。難易度は

受験生によってまちまちであり、その中でも難関校を目指していた私の試験は非常にレ

ベルが高かった。ただそれ自体は私も把握していたため、尚のごとく勉学に励んだ。そ

うしてあらゆるものに耐え続けた私だったが、結果はC判定で合否は五分五分となっ

た。「努力は必ず報われる」とよく聞くものだが、世の中には報われるものとそうでな

いものがあるということを痛感し、悲痛を味わう経緯の末の今日というわけだ。

この時やっと実感として、4年に1度の祭典よりも稀にしか見ない活火山の噴火よりも

長く怒らなかった私の憤激バロメーターの針が∞に振れたことを理解する。気づけば咄

嗟に手が出ていた。バスッという鈍い音とそれに呼応して悲鳴が上がる。目の前では日

比野が倒れこみ、うつ伏せの状態でシクシクと泣いていた。彼の普段の口調や所作とい

うのは、いかにも物理的に強い大人を見習った、‘‘見た目は大人頭脳は子供‘‘という『名

探偵コナンの逆バージョン』のようなものだった。そのためどれだけ汚い言葉を使った

とて所作を大人に似せたとて子供は子供のままなのだと殴られて涙をダラダラと流し嗚

咽する彼を見ながら、自分のしたことに呆気にとられてただ茫然と立ち尽くす。

それからほどなくしてクラスの担任が駆け付け、日比野と私を連れ出し、両者の事情を

聞くこととなった。この場合、プライバシーを守るために1人ずつ聞くスタイルと2人

同時に聞くスタイルとがあるが、担任は後者を選ぶ。しかし、その事情聴取はまったく

もって話にならないほど崩壊していた。日比野は殴られたことによって、「物理的な痛

み」と「プライドに対する傷」の両方からただ泣くだけである。一方の戸田はという

と、殺人をしたことのない人間が人を殺めて自分のしたことを呑み込めぬまま茫然とし

ているかの如く、何を話すわけでもなく前を見つめていた。傍からみれば明らかに喧嘩

を吹っかけてきた日比野が非難の的となるのは確実的だった。特に私が事情聴取の場に

て自身を正当化さえすれば、その目標は達成されたはずだ。だが、戸田はそれをせず、

というかできずに「喧嘩を吹っかけるのは悪いが、だからと言って人を殴ることはよく

ないぞ」というこの国によくある喧嘩両成敗的考え方で解決させた。どこかの芸能人が

学生時代あまりにもひどいいじめに長期間さらされ続け、怒って彫刻刀を振り回したこ

とでいじめがなくなったという話を聞いたことがある。「人に危害を加える」というの

は一見して悪いことのように見えるが、正当防衛という意味で良いことを生み出すこと

もある。しかし私の場合はそのようにはならず、いじめはこれを機にエスカレートする

ようになった。

 

スパイク事件が発覚するまではだが........

「今日の空は青い」

ーダッチ②ー

「やったのお前だろ!ふざけんじゃねえよ!」

 

怒鳴り声が響く神谷小学校6年2組の教室に学年を超えて多くの生徒が集まる。向けら

れた視線の先には座席で肩を丸めておびえる、か弱き男子生徒と彼に声を荒げる同じく

男子生徒の二人のやりとりがある。そして現場から対角線上に離れた窓側の最後尾に私

の座席がある。事件現場を傍から見ていた私だったが決して他人事ではなく、むしろ怒

号は私に向けられているのでは?彼ら2人こそが真の首謀者で私をこの世界から追放し

ようとしているのではないかと恐怖観念を植え付けられる。

 

事の発端は3日前の運動会と直近の話である。神谷小学校は校区が広いこともあって生

徒数が他校よりも多いため、様々な生徒が集まる。だからというわけではないが、小学

校は地元ではそこまで頭のレベルが低いわけではない。賢人10%悪童10%その他

(普通)80%と賢人が悪童と打ち消しあって均衡を保っているのが現状なため、ノー

マルクラスといったところだろう。ただ、例外として教師と生徒或いは生徒同士の衝突

が時たまあり、完全に平穏とは言えない。だが、そんな大人数の学校だからこそイベン

トごとは活きがよく、特に運動会は毎年盛大に国際大会などでも使用される競技場やド

ームを貸し切って催された。母校OBOGはもちろん同席し、どういうつながりかは不明

だが、芸能業界に名を連ねる有名人や著名人もよく訪れ、サイン会などそれはそれは豪

勢であった。

そんな運動会であるが、行事ごととなっても賢人から数えて90%の範疇にある人間は

普段通りに事を進める。そんな中普段悪事を働く10%の人間はなぜかこぞって力を入

れる。そのギャップに女子たちは心奪われるという。男女の世界というのはなぜこのよ

うに真面目人間が馬鹿を見ることがあるのだろうか?「正義を貫く者」と「悪事を働く

者」では前者が好かれるはずだ、と小学生ながらにその理想と現実の狭間に苛まれるの

は私だけではない、いやそんな気がする。そしてそんな10%の集団の中で特に目立つ

神谷小学校悪ガキトップの日比野 猛(ひびの たける)は今、激昂して机をたたきなが

ら運動会での事件について弱き彼を問い詰めようとしている。

 

「お前だろ!俺のスパイクの針外した奴は!」

「いや、それは.....」

「認めろよ!俺の仲間が全部見てんだよ!」

「いや、そうじゃなくて僕は.......」

 

「彼」曾山 秀人(さやま ひでと)は日比野と目を合わすことなく、おびえながら曖昧

な返事をする。何か言いたげな曾山には申し訳ないが、このスパイク事件の実行犯は曾

山で間違いはない。ただスパイクの針を外す現場に出くわさなかった私がそれを断言で

きるのは「私」戸田 誠(とだ まこと)が大いに関わっているからである。

 

 

 

 

 

「今日の空は青い」

ーダッチ①ー

 

学生の頃、私は貧しい思いなどすることなく安全地帯で育ってきた。

 

小・中・高・大と私はそれほど集団の中で目立った存在ではなかったが、友人はそれな

りにいた方だ。それは何があっても勉学だけは疎かにしてはいけないという両親の教え

が染みついていたためである。勉強さえできていれば人間関係も進路も困ることはない

と言われ続け、筆記具だけは離さなかったことで小学校は地元だったが、中・高は県で

も有名な進学校に通い、大学は関西の某有名難関私立大学の法学部に入学した。私の入

った大学は学部別でいうと法学部が最も所属学生数が多く、1学科で500人はいるため学

部全体では1500人はいる。そのため4年間ないし6年間通ったとて全員と顔見知りになる

というのは無謀な話だ。全員と仲良くしたいという欲求に駆られて無理をするとこの世

界では嫌悪感を持つ者が大勢出ることとなり、その後のキャンパスライフに支障をきた

してしまう。ここでスムーズな学生生活を送るためには無理せず、自分がつるみやすい

人とグループを作りその中で楽しみ勤しむことが肝心で、私の場合どれだけ物音を立て

ずに穏便に過ごしていくか、というのが生存のカギなのである。

 

「君、法際の人?(法際は私の大学でいう法学部国際科を指す)」

 

横から声をかけられたのでその方に視線をやると、金色の短髪にブレスレットなどの装

飾品を身に纏った私にとって害悪ともいうべく、タイプの違いすぎる人間が目の前に立

ってこちらをニヤニヤしながら見ていた。〈あ、これは苦手な人種だ〉と咄嗟に感じた

私は、聞こえないふりをして座席を変えようとする。傍から見れば失礼な話だろうが、

明らかに合わない人間というのは接さずともわかるもので、私はそういう研ぎ澄まされ

た感性をもつ人種だから、この時も至って普通のようにそれを行動に移したわけだ。

 

「ちょいちょいちょい!待ちなよ(笑)俺も法際なんだよね、性格合いそう!一緒に話さない?」

 

〈それはなしよりのなし!性格合いそう?そんなわけない〉と内心唱えながら聞く耳

持たなかった私だったが、そもそも自分が法際だということをまだ言っていない。この

時限の講義は一般教養であるため法学部に限らず他の学部生も受けに来る。そのため自

分がどこの所属かも言っていない時点でピンポイントに1発で当てることができるなど

確率として相当低いはずだ。それに『性格合いそう』というのは初対面で使うフレーズ

ではない。なぜこんなことを彼は平然と言えるのだろうか?

今まで感じたことのない疑問が自身の鳩尾にどこへ行くこともなく居座り、空きっ腹に

酒を入れた様な感覚に陥る。席を立とうか立つまいか動きがぎこちなくなる私をよそに

彼はさっさと着席しているため、慎重派な私も1度飲み込み着席する。すると同時に

〈ブーー〉と始業を知らせるブザーが鳴り、担当教授が登壇する。次回からもう少し前

の席に移ろうと思いながら、筆記具を握る。

 

その手には久方ぶりの汗ばみがあった。